前川國男氏と弘前の関わり
前川國男氏は明治38年5月14日、新潟市に父・前川貫一、母・菊枝の長男として生まれる。父方は旧彦根藩士で、母は旧姓田中といい、津軽藩士の田中坤六の娘であるが、田中家は天正7年、現・平賀町内を流れる「六羽川の戦い」で藩祖為信公の身代わりとなり壮絶な戦死を遂げた津軽の忠臣・田中太郎五郎の子孫である。また、母・菊枝の兄、尚武(なおたけ)は明治の外交官・佐藤愛麿(津軽藩の重臣・山中兵部の二男)の養子となり、後に参議院議長、国連大使、東京青森県人会会長などを勤めていた。そして、母・菊枝の妹、栄枝は戦前、青森県下の富豪として知られた五所川原・布嘉の佐々木嘉太郎氏に嫁いでいる。
縁は不思議なもので、前川氏が昭和3年に東京帝国大学を卒業し、フランスのル・コルビュジェアトリエに入る際、折しも祖父の佐藤尚武が、国際連綿事務局長としてパリに駐在し、前川氏の後見人として自宅に預かった。
一方、津軽藩の重臣で、藩主(承昭公)が東京に移ったとき随従して津軽藩の財政に参与し、後に大阪土木や広島電力などの社長を勤めた弘前出身の実業家に木村静幽(せいゆう)がいた。彼が晩年に至って、郷土の弘前に地場産業の為の研究所設立を決意するが、残念ながら実現せずにこの世を去ってしまう。その孫である木村隆三(きむらりゅうぞう)氏が、後に研究所の設立を託され理事長となる人だが、奇しくも、駐仏武官としてパリに在住していた際に、そこで同郷の佐藤尚武を通じ、前川氏とも親交を結んでいたのである。
前川氏は2年余りの留学を終えて帰国後、東京レーモンド建築設計事務所に入所して、そからまもなく木村隆三氏から木村産業研究所の設計依頼を受け、前川氏の名前で実際に手がけた最初の建物となった。その後、母の妹が嫁いでいる佐々木嘉太郎氏が弘前電灯株式会社(後の東北電力・弘前支社)の社長という関係から、昭和8年、当電灯株式会社の建物の設計顧問にも携わっている。昭和25年には、木村隆三氏の兄・新吾氏が弘前中央高校の創立50周年記念事業のひとつとして講堂建築の依頼が再び前川氏にあり、設計を手がけることになる。
こうした積み重ねで、前川氏と弘前市のつながりが、より一層緊密なものとなった。存在する建築物は、弘前市内に初期から晩年までの作品が八点残っている。
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